地元は吉祥寺・武蔵野育ち
1986年生まれ。武蔵野中央幼稚園、武蔵野市立第一小学校。
立教女学院中学校・立教女学院高等学校、立教大学社会学部卒業。
卒論は「吉祥寺の社会学〜トカイナカの未来〜」。
中学から新卒1年目まで、実家で要介護5のパーキンソン病の祖父の介護があり、
母がヘルパー2級を取って在宅介護していた。私も数時間ごとの体位交換など、
介護の手伝いが身近であった。
新卒で住友商事に入社。(資源エネルギー事業部門)
切迫早産で緊急入院し、退社。絶対安静の24時間点滴が約3ヶ月続く。
入院中は東京衛生病院から大学病院に転院するため、救急車での母体搬送も経験。
出産は回旋異常が起こって難産。NICU(新生児集中治療室)とGCUのお世話になり、
子どもを産むことの奇跡、命の尊さを身をもって実感する。
筋力・体力共に落ちていて産後に苦労する。
ノンポリから、原発事故で価値観の変化
尊敬している、立教女学院の社会の先生の卒業の時の言葉が「お前ら、絶対に投票に行けよ」であった。
2011年の原発事故をきっかけに、政治と生活は無関係ではなく、無関心でいて逃れられるものでは
ないことに愕然とする。政治と生活は密着しているからだ。
自分の子どもが良ければいいのではなく、私たち若い世代が
次世代の社会全体を良くしていく努力しなければいけないと真剣に考えるようになる。
ひとつひとつ疑問や興味を深掘りし、政治に近づいていく
情報を集めるために国内外の新聞や報道もチェックするようになる。
その中の情報源の1つ、山田正彦さんに出会う。
2014年 山田正彦(元農水大臣・弁護士)私塾・炉端政治塾生
「知行合一」をモットーにされている山田正彦さんに地方自治の大切さを教わり、
地方議員への出馬を促される。
武蔵野市議会議員に
当時の武蔵野市議会は20代ー30代の女性議員が0人だった。
当時29歳。
子育て世代の声を市政に届けたい、受け皿が必要に違いない、という思いで一念発起し無所属で出馬。
組織や団体の力を借りず、同級生とママ友などのボランティア選挙で初当選。

子どもの権利条例の必要性をいち早く、しつこく訴える→自治基本条例に反映
議会傍聴時の託児サービスの創設
欠席届の紙提出に対する問題提起
クリーンセンター解体時に放射線量測定を追加
幼稚園預かり保育の拡充
任期中から世田谷区長・保坂展人政治スクールにも通う。
ブラジルへ3年間、ポルトガル語・異文化での生活とコロナ禍
長い時間迷ったものの、家族一緒に過ごすために2期目の出馬せず、
2019年から3年間、ブラジルへ駐在帯同。サンパウロで過ごす。
武蔵野を飛び出て、「日本人」というマイノリティになり、海外経験を通じて視野が広がる。
自分から心を開き、「違いを乗り越えて共に生きる」ことについて、寛容な国民性のブラジル人に教わる。
世界で2番目に人が亡くなったブラジルでコロナ禍を過ごし、「公」の役割とセーフティネットの大切さを改めて実感。
現地から、保坂のぶと世田谷区長の政治スクール、法学の勉強のオンラインなど受講。
本帰国、市議会議員再選
2023年、武蔵野市議会議員選挙に再挑戦し、再当選させていただく。(2,983票、全体3位)
突然の選挙、野党統一候補として市長選出馬、敗北
菅直人さんの引退によって松下玲子(前)市長が出馬表明をされ、クリスマスイブの市長選が起こる。
野党統一候補として各党の皆様に一律で「支持」をいただく。
多くの方のお力添えがあったにも関わらず、339票差で元自民・小美濃安弘候補に破れる。
自分自身の力不足を深く反省し、言葉にならないほどの大きな責任を感じています。
ゼロから地道に、改めて地域への恩返しをする気持ちで日々出来ることを取り組みました。
その後の1年間
保坂区長の政治塾は変わらずに通い、政治の勉強を続けています。
また、現役世代を中心とした地域でのつながりプラットフォームを主催し、月に1回活動してきました。
中でも、ジブリ映画『火垂るの墓』の公会堂への上映会を実現しました。
武蔵野市平和の日にあわせて、多くの子どもたちや家族連れと貴重な時間を共有することができました。
また、2025年は日本の農と食を守るため、令和の百姓一揆実行委員会事務局として
農家さんと力を合わせて東京など14箇所ででトラクター行進などを行いました。
また、地元ではコミセンの仲間としても地域活動をしてまいりました。
辛い1年間でもありましたが、多くの方々に恵まれ、学びの多い時を過ごすことができました。
この経験を全て地域へ活かしてまいります。